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「原爆の日」 キノコ雲の下に父は居た

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「原爆の日」 キノコ雲の下に父は居た
この記事は毎年8月6日にアップしている記事です。 
 
原爆の日になると、毎年父の事を何時も以上に思い出します。
この記事は毎年再更新しています。時間があったら読んで下さい。

八月になると広島で原爆に遭遇した父のことを思い出す。
父が復員して来てから聞いた話を思い出しながら書いて見ました。

広島市外に在る部隊(地名は忘れたが山の中と聞いている)を朝早く出て市内の部隊に着き、兵隊さんは二階の食堂に集合した。
父は輸送トラックの運転手、車を点検し、食堂に向かった、階段の中程まで来ると、何かが起こった。
気がつくと階段下の大きな箱の中に居たと言う。
二階では隊員達のうめき声、ガラス窓のガラスが隊員達の顔や手、夏なので薄着の為服の上からも、ガラスが刺さり、食堂は血に染まり地獄と化したそうです。
父だけは、幸い負傷はしなかったが、胸に入れていた兵隊手帳の三分の一位にガラスが刺さって居たそうです。(子供のころその手帳を見た記憶がある)
部隊は何が起きたが解らず、隊員を治療し軽症の隊員を集め調査に向かう、何処に大きな爆弾が落ちたか解らず、中心地に行くことも出来なかったそうです。
歩きながら、靴の裏が熱くなるのが解る、道端に負傷した市民が「兵隊さん、水を下さい」と、か細い声で訴える。
此処で、水を飲ませると息絶える、解っていても、水を飲ませると人間の顔になって息絶える。
そのまま、水を飲ませなくも死んでいく、飲ましても笑顔は忘れていた。

思い出して書いて居ると、父のこと負傷した広島市民の人たちの事を考えると、胸が詰まり涙が出て書けません。

大型爆弾としか解らないその被害に絶句したと言う。
元安川には死体が数え切れない程浮かび言葉では表現出来ないと言う。たぶん、水を求めて川に行き自ら死に水を飲んだと言う。
かろうじて、生き残った人、衣服はぼろぼろ、スカートは暖簾の様に裂け、道端に倒れた人がゴロゴロ、負傷者を見ると、まだ助かると思った負傷者、殆どが火傷、火傷には油、しかし油は無いそこで、自動車の油と灰を練って薬の代用にしたそうです。
薬を塗布するとき皮膚が剥がれ・・・・・
今思えば、灰には放射能があったのだろうか、その時は解らない放射能入りの代用薬で一命を取り留めた人が居たのだろうか。父のした行為は正しかったのだろうか? 疑問に思うが当時はそれが最善と信じている。
父は戦後残務整理に参加し復員が遅くなったが帰って来たのをはっきり覚えている。
コウリャンのおにぎり、兵隊さんが使っていたアルマイトのボールの入ったリック(雑納?)・・「父ちゃんが帰って来た」と走って迎えに行った。
暫らくすると、「聞けわだつみの声」と言う原爆を題材にした映画が封切られた、見に行こうと言うと、父があの惨状はどんな名匠でも表現出来ないだろうと言う。
又、表現してはならないとも言った言葉が残っている。
   おわり

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